We Love Braves & Mini (1st G)

阪急ブレーブスとミニを愛する管理人が綴るブログ

九州 最高ばい!(福岡市内編2)

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【福岡市文学館(旧日本生命保険会社九州支店)】
1909年築で建築家 辰野金吾設計。
但し文学館は月曜日休館で中に入れず。残念。

【西進 元寇防塁】
鎌倉時代 蒙古襲来の際 敵の襲撃を食い止めるために博多湾岸に全長20kmにわたり築いた防塁。市内3箇所に史跡として残る。
行ったのは西進に残る防塁。
現在 埋め立てが進み海岸線は遥か北に移動し、防塁の先は西南学院の体育館。
イマジネーションを逞しくしても、防塁の先が体育館では歴史のロマンは膨らみません。
旧宮家久邇宮・梨本宮・閑院宮のお手植えの木と碑が立つ。戦前 本土決戦の際には神国日本には神風が吹くという政治的煽動に防塁が利用されたのだろう。
西南学院構内にも防塁が復元されてあるということあったが、お盆休みかこれも休館。

福岡城跡】
慶長年間 関ヶ原の戦功により豊前中津から52万石として、その行政府として黒田氏が築城。
現在 殆どが公園となっている。広大な敷地には不釣合いなくらい天主石垣は規模が小さい。
豊臣恩顧大名として徳川治世の時代を生き抜くには、恭順の姿勢が必要だったのかもしれない。
母里太兵衛氏屋敷長屋門は城敷地内に移築され現存する。母里太兵衛といえば同じ豊臣恩顧の福島正則氏から名槍日本号を呑み取ったことが黒田節のなかに逸話として残るが、徳川時代になると、こういった美しい蛮勇も影を潜め、むしろ御家騒動を繰り返すことが却ってそれが更に見苦しいまでの幕府への追従の姿勢を取らざるを得ないようになる。
御堀端には、蓮の花が咲いていたようだが、午後の強い日差しで大半の花は閉じているようである。その御堀端には西鉄ライオンズなどが本拠地とした平和台球場があったことを示すモニュメントが残る。実際の球場跡は遺跡発掘中で外野スタンドの一部が無残なかたちで残る。