We Love Braves & Mini (1st G)

阪急ブレーブスとミニを愛する管理人が綴るブログ

伊賀路をゆく(その2)

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田舎暮らしホームスティを1泊で切り上げ。
大阪へ帰る途中 伊賀上野観光。
伊賀といえば 当然 忍者をメインに町おこし。
観光タクシーにも忍者の人形が・・・ん? 悪ガキが“浣腸ッ!!”と悪戯をしているようにも見える。(写真1枚目)
上野城のある公園では骨董市が開かれており、気になった“のらくろのお皿”をお土産にパチリ。(写真2枚目)
お約束の上野城に隣接する伊賀流忍者資料館も行く。
忍術というのは実際 諜報活動として機能していたのは江戸時代初期くらいまでで、島原の乱くらいまで時代が下ると農民軍に生け捕りされるなど忍術を使った活動自身に懐疑的な意見が幕府内で持ち上がるようになる。上忍を束ねる宗家の頭領は既に大名に列した者や旗本・同心になって特権階級に属し始めているのだから後世の時代活劇のような活躍は期待出来ないは当然の帰結とも言える。
先だって行った宇治は幕府直轄地で宇治代官として派遣された上林氏も忍者の末裔で、更にその末裔が「上林春松堂」として茶商として現在に至り“綾鷹”というペットボトルのお茶があるのである。
少し脱線したが、その伊賀流忍者資料館でジャパンアクションクラブ系の忍者アトラクションがある。所詮 子供騙しのチャンバラ劇を見せられるのか思いきや、熱の入った演技はなかなか面白かった。手裏剣が板にドスドスを刺さる瞬間は鳥肌が立ってしまいました。(写真3枚目)
伊賀上野城は江戸時代初期 築城の名手と言われた藤堂高虎により拡張され、明治維新まで藤堂氏が納める。「国の大事があるときは高虎を一番手とせよ」家康の遺訓によりそれ以降 幕府軍の先鋒は彦根井伊家・上野藤堂家が勤めるのが徳川家の兵法の常道とされたくらい外様大名でも信頼は厚かったが、後世 明治維新鳥羽・伏見の戦いの際は、その両家は新政府軍に寝返る訳だから神君家康の眼力を持ってしても300年後までは見透すことは出来なかったのである。
有名な「黒漆塗唐冠型兜」を城内の資料館で見つける。
特に撮影禁止でないのでこれもお土産にパチリ。(写真5枚目)
今まで写真でしか見てことがなかったが、実物はなかなかの迫力です。この兜を見れただけでも上野に来てよかったです。